2022.03.22東日本大震災 慰霊訪問(3月10日〜3月12日)
去る3月10日から3日間、恩送りを代表して4名のメンバーで「東日本大震災」犠牲者慰霊の旅に東北地方へ赴きました。
仙台駅からレンタカーを使って、最初に訪れたのは「震災遺構 仙台市荒浜地区住宅基礎」と「震災遺構 仙台市立荒浜小学校」でした。
被災地を訪れて10年
私が初めて被災地を訪れたのが震災翌年の2012年のこと。震災から1年が経過していましたが、この時にはまだ瓦礫の撤去作業もままならない状況で仮設のプレハブも数多く立ち並ぶなか、生々しい大災害の爪痕を目の当たりにながら、起こってしまったことのはかりしれない大きさにただただ呆然とする他ない、あの日ほど人間という存在の無力さを思い知らされたことはありませんでした。
震災遺構
あれから10年という月日の中にそれらの光景は整えられていきましたが、決して失われてはならない震災の記憶と教訓を後世へと語り継ぐ場として残されたのが「震災遺構」と呼ばれるものです。
3月10日
「荒浜地区住宅基礎」
「荒浜地区住宅基礎」では震災前の同地区の写真とともに、変わり果てたかつての「街」を見つめながら、11年前の3月10日には確実にあった「平穏なる生活」に思いを馳せました。きっとここに居た全ての人たちが信じて疑わなかった翌日の「平穏なる生活」は一瞬にして奪われたのだと思うと、私たちの今の平穏もまた同様に確実ではないのだと、今の無事は偶々であり、だからこそ尊いものなのだと、改めて身につまされました。
遺構のそばには津波の高さを示したモニュメントが立っていました。その高さ13.7m・・・数字では想像してもしきれない絶望と恐怖があるのだと、実際にその長さを見つめながら思いました。
海岸の方角では、慰霊の観音像の前で十数人の僧侶とご遺族らしき方々が追悼の法要を営んでおられました。私たちも御焼香させていただき、この場を後にしました。
仙台市立荒浜小学校
「荒浜地区住宅基礎」から車で1分ほどの場所に「仙台市立荒浜小学校」はあります。
荒浜小学校は1873年に開校された公立小学校で、2016年に閉校されるまで143年という1世紀以上の歴史の中で、数多の子供たちの成長を見続けてきました。
震災の折には校舎の2階部分まで浸水し、4階と屋上に避難した320名の児童や先生、住民は、その夜から翌日にかけて27時間にも及ぶ自衛隊によるヘリでの救助活動が行われたとのことです。
校舎には2016年3月31日の日付で「ありがとう 荒浜小学校」と横断幕が垂れ下がっていました。「ありがとう」とは「有ること難し」が語源の言葉です。まさに何気ない平穏なる日常こそが「有難う」なのだと、その本来の役目を終えた「荒浜小学校」は今も、別の形で私たちに教えを示していました。
印象的だった展示
校内の展示で印象的だったのは、「荒浜はもとの様子に戻ると思いますか」という問いに対して、子供たちが意見を出し合っている発表でした。「荒浜を愛する人がまだ残っているので、そういう人が増えれば戻る」という意見もあれば「また津波が来るかもしれないので戻りたい人は少ないかも」「昔の荒浜には戻らないけど、新しい街は作れるのでは」など、大人でも頭を悩ませる問いに対して、たくさんの真っ直ぐな意見が張り出されているのを見つめさせていただき、この子達ならきっと、この悲しみとともに新しい未来を築いてくれるという確信と、もう終わりを数える方が早い私が、彼らのために果たして何を為すことができるのか、大切な宿題を受け取ったように思います。
石巻市立大川小学校
初日の最後に訪れたのは、宮城県石巻市にある「震災遺構 石巻市立大川小学校」でした。荒浜小学校と同じく1873年に桃生郡釜谷小学校として開校されたのち、昭和60年に第一大川小学校と第二大川小学校が統合され、現在残されている校舎が完成されたこの場所は、あの震災で73名の児童と教員等11名が犠牲となり、学校管理下では史上最悪の犠牲者を出したことで、「大川小の悲劇」としてマスコミにも大きく報道されました。
二度と同じ過ちを繰り返さない
この事件はのちに、23名のご遺族が宮城県と石巻市に対して損害賠償請求を起こしましたが、2019年には最高裁が県と市の上告を棄却する形で結審しております。失った命に対して、究極的には責任を取ることはできません。一度失われた命は取り戻すことができないからです。それでも、訴訟を起こし、ご遺族が勝訴されたこの事実はとても重く、それはあの時大川小学校で起こったことを明らかにすることで、二度と同じ過ちを繰り返さない、その一点に尽きるのではないかと思います。
11年前の3月11日、犠牲になった84名の方々は皆生きるための最善を尽くそうとしたはずです。しかし、そういう行動と結果にはならなかったのは何故なのか、そのことを明らかにし、責任を持ってのちの私たちは生きる必要があると思います。
私は書籍で大川小学校に関する知識は持っていましたが、実際にその場に立ってみても「わかる」ことはないのだなと。「わかった気」になることはできるのでしょう。しかし、目の前で、大切な人や場所が失われていくことは、どんな想像力を持ってしても「はかりしれない」ことだと思います。
このグラウンドに11年前、子供たちが立っていた。先生たちも立っていた。すぐそばには傾斜の緩やかな山もあった。津波到達まで51分もあった。
10メートル近い巨大な黒いうねりを目の前にした時、映画のようにヒーローになれる人は現実には存在しないってこと。99回狼は来なくとも、1回の悲劇を避けるために、私たちは100回逃げる、そしてちゃんと逃げるための準備を平時にしておくこと。「まさか」は起こりうるということを私たちは決して忘れてはなりません。
未来を拓く
野外ステージのコンクリートの反響版には「未来を拓く」という大川小の校歌の一節がいまなお残っています。すぐそばに書かれた「世界が全体に幸福にならないうちは、個人の幸福はありえない・・・・・」という宮沢賢治の言葉が深く胸を突き刺します。
日が陰り冷たい風が吹き始めている校舎を見つめていたら、とんびが「ピィヒョロロー」と鳴くのが聞こえてきました。あまりにも静かで美しくて、悲しい気持ちになりました。
3月11日
高田松原津波復興祈念公園
3月11日、私たちはまず「高田松原津波復興祈念公園」を訪れました。10年ぶりに私が被災地を訪れたことは先にも書きましたが、その時に最初に私が訪れた場所がこの陸前高田市でした。東京からカーナビを頼りに進んでいくと、まだ情報更新されていない私の車のナビ上には、駅があり、スーバーがあり、床屋があり、と、間違いなくここに「街」があったのだと示されているのですが、私の眼前に広がる光景は、まさしく「荒野」でした。
あまりにも何も残っていない、かつてそこが駅だった跡地で、私は車中ひとりで号泣したことを覚えています。あれから10年が経ち、もちろん多くの瓦礫は撤去され、美しく整地されたこの場所には、私の薄れゆく記憶とも異なった陸前高田がありました。
震災伝承施設
新しい陸前高田に作られた「高田松原津波復興祈念公園」は、「東日本大震災津波伝承館 いわてTSUNAMIメモリアル」を中心に5つの震災伝承施設で構成された、犠牲者への追悼と鎮魂、震災の記憶と教訓を後世へと伝承するとともに、国内外へ向けて復興に対する強い意志を発信するために整備された場所です。
奇跡の一本松
5つの震災伝承施設の中には、震災復興のシンボルとして有名なあの「奇跡の一本松」があります。7万本の松原のなかで唯一生き残った「奇跡の一本松」でしたが、翌年には根が腐り枯死と判断され、その後は伐採され幹の中心はくり抜かれ芯棒を通し、外側は防腐処理を施され、文字通り「モニュメント」となりました。
確かに、あの震災の猛威を耐え抜いた一本松が、人々の希望となり支えとなったことは事実で、いまなおその孤高の屹立が必要とされるのも仕方のないことだと思います。しかし、私が10年前にこの目に焼き付けたその立ち姿とは、たとえ見た目が同じでも、全く異質のものに変容してしまったのだと、複雑な思いが込み上げてきました。
元来、「奇蹟」とはキリスト教に起因する言葉で、自然法則を超えた神のみわざを意味する言葉で、因果を説く仏教では用いられることはありません。「奇跡」に支えられ、勇気づけられた後に、本当に私たちが見つめなければならないことは何なのか、深く考えさせられる一本松との再会となりました。
駐車場に戻りながら、すぐそばを流れる川原川の中洲に枯れすすきに紛れて、若い松が育ってきているのを見つけ、少しほっとしました。
令和4年東日本大震災追悼式
その後は「令和4年東日本大震災追悼式」が行われる「市民文化会館 奇跡の一本松ホール」へ移動し、一般献花場にて献花しました。
泉増寺
3月11日、最後に訪れたのは、真言宗智山派のお寺「産形山 泉増寺」さまです。こちらは弘仁元年(810年)の開基ということで、1200年以上の歴史を持つ古刹。毎年営まれる追悼法要に宗派の垣根を越えてお参りさせていただくことができました。
車を停め、山門へと向かう途中、地元の方と思しきおばあちゃんに「ありがとうございます」とにこやかに声をかけられました。どれほどの思いを抱えながらこの坂を登られておられるのか、しかしそれをおくびにも出さず労いの言葉をかけてくださったおばあちゃんに、こちらこそ「ありがとうございます」という気持ちでいっぱいになりました。
追悼法要
法螺貝を吹くという独特の作法で法要が始まり、真言宗の厳かなお勤めの中、私は慰霊碑に刻まれた一人一人のお名前を反芻しながら、この大震災でお亡くなりになられた全ての方々と、大切な人や場所を失った全ての方々が少しでも安らかでありますようにと祈りました。
法要の最後は、お檀家の婦人部の方々による御詠歌の詠唱でした。
侘しくも美しい鈴の音と、一語一語に込められた想いが独特の和音となって、私の心に沁み入りました。
黙祷
そして、3月11日、14時46分、市役所から追悼のサイレンが鳴り響く中、黙祷を捧げました。11年前の悲しみだけではない、この1200年続く古刹の持つ途方もない歴史の時間に想いを馳せながら、この先の1000年の後も、誰かが祈り願うことに希望を感じました。
3月12日
気仙沼市東日本大震災遺構・伝承館
最終日、私たちが向かった場所は「気仙沼市東日本大震災遺構・伝承館」でした。こちらは、気仙沼向洋高校旧校舎を遺構として保存しながら組み込む形で伝承館を新設したもので、個人的には今回の旅で一番よく出来ていると感じた震災を伝えるための場所でした。
エントランスを抜け、まずは大きなスクリーンで、あの日の気仙沼を襲った津波とその後に訪れた大火災の映像を見ました。私はこれまで、自分からYouTubeなどを使って震災の映像を見たことはありませんでした。色々な考え方があるとは思いますが、私にはあの日の映像をNetflixでコンテンツを見るように消費してしまうのは違うのではないかという思いから、被災地関連の映像に触れず今日まで来ましたが、映画館のスクリーン並の大きさで映し出された3.11の様子は、やはり想像以上に強烈なものでした。これがまさに眼前で起ったのだと思うと、改めてその途方もない現実に想像力は決して追いつけないのだろうと、一層の無力を感じました。津波や火災の映像を見た後に巡る校舎は、今まで見てきたどの遺構よりも厳しい現実として心に焼きつきました。
11年という月日の持つ意味
屋上からは、隣接している屋外ひろばで親子連れが遊んだり、グランドゴルフを楽しんでいる姿が見えました。ここにいる多くの人たちが、大きなものを失っておられるのだと想像しながら、それでもまた人は笑えるのだと、無限にも続くような暗闇にあっても、いつかはやはり光刺すのではないかと、11年という月日の持つ意味というものを改めて考えさせられる光景でした。
まとめ
たった2泊3日の旅でしたが、とても長く濃密な時間に感じました。私にとっては10年ぶりの被災地を巡り、この地に実際に立たねば感じることのできなかったたくさんの想いに触れながら、私もまた、確実に移り変わっているのだと気付かされる、そんな3日間でした。新たなディケイドの始まりの年にこの地を踏むことができたことに感謝をしつつ、被災地に本当に必要なことは何なのか、「真の復興」について、これから私たちができることを改めて考えて行きたいと思います。
東日本大震災で被害に遭われた全ての方々に、心からの哀悼を捧げます。
令和4年3月12日 吉野雄大